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いつから堂々と生きることが出来なくなったのか?

「いつも人目を気にして、自分らしくとか、やりたいようにとか、出来なくて。堂々と生きている人を見たらあんな風にはなれないなって思うんです」

難しいですよね。堂々と生きるって何なんでしょうかね。

資格があれば、人に認められれば、収入が高ければ、過去に自慢できる功績があれば、、、。どこかで「自分らしく生きる許可書」みたいなものを、自分で作り出しているのかもしれません。

守ってくれる目ではなくて

人目を気にすることは決して悪いことではありません。言い方を変えると周りに配慮することができるとか、気を使えるとか、そんな言葉になるのではないでしょうか?

「人目を気にする」という言葉を使うときは、それがネガティヴな意味を含んでいることが多いですね。

つまり人目を気にすることで自分への制限が強くなっている状態です。

「本当は〇〇したいけど、人目を気にしてやめた」というように、自己制限の理由として「人の目」という言葉を使います。

人目とは、他人の目ですからね。他人にいつもジャッジされている(監視されている)ような感覚があるわけで、その目は保護する目ではないんですよね。

守ってくれる目ではなくて、自分を責める目なわけです。

人の目は、本当は自分!?

心理学には「投影」という言葉がありまして、ややこしくでめんどくさい言葉なのですが。

心の中にある他人の目は本当に、他人の実際に目や言葉なのでしょうか?

「私がこんなことをしたら笑われる。変に思われる」と。

そうやって作り出した他人の目は、本当の他人の意見なのでしょうか?

もしかしたら、自分が自分に言い聞かせている言葉を「人の目」と言っているのかもしれません。

「私には〇〇は似合わない」「私は調子に乗ってはいけない」

自分で自分に制限をかけているだけかもしれません。

では、何でそんな制限をかけてしまうのでしょうか?

小さな出来事でもリフレインされて

小さい頃から、もっと言えば赤ちゃんの頃から自分に制限をかけることはやっていないと思います。

赤ちゃんが「自分が泣いたら迷惑だから」「自分にはぬいぐるみを似合わないから」と自分に制限をかけないですよね。自由に泣いて、自由に笑っています。

しかし、成長していく過程の中でお母さんに言われた一言とか、悲しい想いをした出来事が心の中でリフレインしていって、それが自己イメージを形成するルールになってしまいます。

「あなたはスカートが似合わない」

お母さんが言った一言が自分の中でリフレインされて、いつしか「私はスカートが似合わない」「スカートを履いてはいけない」と確固たるルールに変貌することがあります。

そのルールが「私がスカートを履いていたら周りの人は変だと思う」と変換されていきます。

子供の頃は特にスポンジのような周りに言葉を吸収してしまいますからね。相手は何気なく言った言葉かもしれませんが、それが強く影響していくことがあります。

痛みや悲しみを受け入れる

堂々と生きることは、自分にかけた制限を外すしていくことです。

堂々と生きることは、他人の目を気にしないで好き勝手に生きることでも、目立つように生きることでもなくて、自分を受け入れていくことではないでしょうか?

生きていくと人に否定されたり、思ったように上手くいかなったり、自分に制限を作る機会は、それこそ嫌というほどたくさんあります。

制限の裏には痛みや悲しみがあるんですよね。もう2度とその痛みを味あわなくていいように、制限をかけているわけです。

自分を受け入れていくことは、その痛みや悲しみを受け止めてあげることです。

傷付いた痛みを放っておけば、それを守る為に制限が増えていきます。自由に生きられなくなっていきます。

傷が癒えること出来れば、制限も必要なくて自由に生きられます。

それが堂々と生きることに繋がるのではないでしょうか?

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