「生きること」と「暮らすこと」
便宜上ちょっと分けて考えてみます。
食べる、寝る、仕事をする。
生物としての人間が必要なことを「生きること」として、「暮らすこと」はそれ以外の心を満たしてくれる営みと考えてみます。
(人間は仕事をしなくても生きていけるけど、ご飯を食べるお金を稼ぐ、家賃を払うお金を稼ぐというように仕事は「生きること」とまったく無関係ではないですね。)
人は「生きること」に忙殺されてしまうと自分らしさを見失ってしまう。
起きて、ご飯を食べて、仕事して、寝る。
起きて、ご飯を食べて、仕事して、寝る。
「それだけでも幸せじゃないか!?」と思えるかもしれないけど、何度も観た映画がDVDデッキから取り出すことが出来ずに永遠にリピートを繰り返す空しさも感じてしまうかもしれない。
「生きること」は生物の身体機能として大切な役割を担ってくれているけど、僕らは身体だけで生きているわけじゃない。
心を満たすこと。
それは一見他人から見れば無駄のように思えることかもしれない。
本を読むこと
ライヴに行くこと
仕事終わりにお酒を飲むこと
友達と長電話すること
ゲームすること
カメラで写真を撮ること
映画を観ること
マッサージを受けること
人によっては必要ないことかもしれないけど、自分にとっては心を満たしてくれる大切なこと。
それが「暮らすこと」
「生きること」に忙殺されてしまうと、文字通り死んだように生きていると感じてしまう。生物としては生きているのに、心が満たされてないから。
ゾンビのことをリビングデット(生きた死体)と言うけれど、「生きること」に忙殺されると身体は生きているのに心が満たされてない。心が乾いてしまっている。
「生きること」と「暮らすこと」の関係性はとても曖昧で。
カフェラテのようなもの。
カフェラテの語源はフランス語の「Caffè Latte」で、カフェはコーヒーのことでラッテがミルク。
コーヒーの黒とミルクの白がグラデーションのように混ざり合ったグラスの中のカフェラテは、どこまでがコーヒーか、どこまでがミルクなのか、その答えは曖昧。(曖昧だけど美味しい)
食べること
寝ること
仕事をすること
それが「生きること」なら
楽しみながら食べること
明日を楽しみにして寝ること
目標に向かって仕事をすること
(それが仕事の目標ではなくて、お金を貯めて旅行に行くぞ!的な目標でも)
それらは「暮らすこと」になる。
ちょっとの差が大きな違いになってくる。
「心の渇き」は
何の為に生きてるのだろう?
私はなぜ生きてるのだろう?
そんな哲学的な思考の迷路を彷徨いながら、寂しさや孤独を引き寄せていく。
あなたにとって「暮らすこと」は何でしょうか?
お気に入りの本とノートを持って、太陽の光を浴びていつもの喫茶店にいくこと?
子供たちの帰りを待って、長男の好きなミートソースと次女の好きなアボカドサラダを用意してあげること?
朝起きてベランダで育てているセンニチコウ(千日紅)のお花を写真に撮ること?
秋色のカラーのネイルを塗りながら、海外の恋愛ドラマを観ること?
湯船にお湯がたまるまでの間にハーブティーを淹れて、半身浴しながら好きな音楽を聞くこと?
心が渇いてしまうと「生きること」以外のすべてがどうでもいいように思えてしまいます。
そして孤独を感じていきます。
でも、私たちは生物として生きていくことから見れば、無駄に思えるような出来事や瞬間に心が生かされていきます。
心を緩めることは、「生きること」ばかりの人生から「暮らすこと」にちょっと意識を向けてみることです。
心を満たしてくれるものは、理由や意味を頭で考えていくと無駄なことのように思えます。
時間の無駄、お金の無駄、体力の無駄。
だけど、
曖昧で理由や意味は分からなくても、心は満たされていきます。
「緩む」とは心を満たしてあげること。
もちろん人は「暮らすこと」だけでは生きていけないけど、「生きるために」に「暮らすこと」は大切です
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