小さい頃、カラーボールがたくさん入ったプールのような遊戯施設があった。
あの当時は300円で15分だった。
今でも、デパートやショッピングモールでその中で遊ぶ子供たちの姿を見ることがある。
何百個、何千個?のボールの中にダイブしたり、泳いだり、ただボールがたくさんある空間はそれだけで日常とは全く違う世界だった。
そこは無限大の遊びの可能性を秘めていて、15分があっという間に過ぎた。
年に一回行けるかどうかのボールプールは、子供にとって宇宙旅行だった。
あれから何十年経っても、
ボールプールを見かけるたびに、「大人でも入っていいのか?」とチェックするようになった。
でも、さすがにひとりで入る勇気はない。
それと同時に、今は言葉のボールの中にダイブしていると思う。
文章を書くことは、言葉のボールの中に飛び込んで「これだ!」思うボールを見つける作業だ。
溺れているのか?泳いでいるのか?
沈んでいるのか?浮き上がっているのか?
言葉を見つける作業は無限大に広がっていく。
心理学を解説する文章は、普段カウンセラーとして仕事で使っている言葉を見つける作業なので慣れている。
でも、エッセイやコラムのような文書を書く時は、もっと深く潜れるような気がして、どこまで迷子になれる。
ここら辺でいいんじゃないかな?
いや、もっと深く潜れる。
ちょっと息が苦しくなってきたぞ。
もう上がってしまおうか?
何を探していたんだっけ?
そんな自問自答を繰り返しながら潜っていく、溺れていく。
子供の頃と違って15分の時間制限もない。
迷子になれることは幸せなことかもしれない。
なぜ、これほど夢中になるのだろうか。
文章を書くことは、誰かに何かを伝えるようで、自分に語りかける作業だ。
相手に向かって投げかけているようで自分に問いかけている。
心理学の文章が描きやすいのは
先人たちが潜って見つけてくれた言葉を借りられるから。
エッセイやコラムは借り物の言葉は使えない。
いや、きっと使いたくないんだろうな。
どこまでも潜って自分で見つけていくしかない。
自分だけが見つけた言葉は
「誰に求められているのか?」も分からないけど、
今日も文章にしていく。
それはカラーボールの海に潜って、
「このボール見つけたよ!」とお母さんに言っていた頃と
少しも変わらないかもしれない。
自分だけが知っている森の秘密基地を案内するように、
潜って溺れて見つけた言葉を文章にしていく。
思いのままに書いた文章はなかなかまとまらないけど、
「うまくまとまるだけがすべてじゃないぜ」と思うのです。
まとめようとするとこぼれ落ちてしまう「何か」をちゃんと拾いたくて
いつまでも言葉のボールの中に潜り続けるのかもしれない。
言葉のボールの海は、誰かのこぼれ落ちた言葉で溢れている
行儀よく並んでいる言葉たちの方が
誰にとっても分かりやすいのかもしれないけど。
「前に習え」からはみ出した言葉に救われることがある。
行儀よくいられなかった気持ちの居場所を見つけているのかもしれない。
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