愛することと過干渉になることは違うんですよね。
愛していたら何をしてもいいわけではないですし、
逆に過干渉になることにビビりすぎて愛が伝わっていないこともありますし。
愛が過干渉になっている時
行き過ぎた愛は相手の制限になることがあります。
子供と親の例だと分かりやすいかもしれませんね。
子供にピアノとか、体操教室とか、お勉強の塾とか、愛情からいろいろ習わせたいかもしれません。
その気持ち自体は間違ってないと思いますが、じゃあすべて子供が喜んでくれているかと言ったら別問題なんですよね。
子供は本当は友達と遊びたいかもしれません。
愛情の形や種類を自分だけで決めてしまうと、愛情が制限になることがあります。
愛することは反応を見ること
愛することは相手の反応を見ることです。
料理を作ってて、この量でお腹いっぱいになるか?味付けは濃ゆい方がいいか?とか相手の反応を見ている感じですね。
恋愛がうまくいかない人の多くは相手の反応を見ることができません。
フィルターがあって、ちゃんと見れないのです。
罪悪感とか、無価値感とか、過去の恋愛の傷とか、男への怒りとか。
無意識に自分都合に塗り替えて相手の反応を受け取ってしまいます。
その状態では愛情が裏目に出てくることが多いのです。
お腹いっぱいの相手に、チャーハンを大盛りで出すような過干渉に愛を押し付ける形になることもあります。
引き気味の恋愛も根本は同じ
過干渉の反対のように思える相手に近づけない問題も根本は同じです。
負担になったらどうしよう?
重たいと思われたらどうしよう?
控え目に愛することも、相手の反応がちゃんと見れていないからです。
お腹空いた人にグミを一粒与えるようなものです。
過干渉な愛情も、控え目な愛情も、メカニズムは同じなんですよね。
うまくいかない恋愛をしている方に
「自分を殻から抜け出しましょう!」とアドバイスすることがあります。
それは相手の反応をちゃんと見れるようになりましょうね、
ということです。
相手を見ることが癒してくれること
自分の気持ちから少し離れて相手を見ることって、実はそれ自体が癒しなんですよね。
相手を見ることは、罪悪感やら、無価値感やら、過去の恋愛の傷に囚われた自分を解放することです。
言い換えると相手を見ていないから、自分の中にある罪悪感やら、何やらに気を取られてしまうのです。
愛することは、見てあげることです。
愛することは囚われていた自分を癒すことです。
例えば、子供の頃は分からなかった父親や母親の愛情を受け取り直すことで、過去が癒されることがあります。
それは子供の目線では理解できなかったことを、大人の目線で見てあげることで理解出来るからです。
子供の自分を手放して大人の目で見ることで、許せなかった親を愛せるようになることがあります。
愛することはちゃんと相手を見ることです。
そこにコミットすることで、囚われている自分を解放できるのです。
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