コラム

曖昧さを受け入れてみる

「自分を好きになること」と

「自分を嫌いにならないこと」は

ちょっと違うかもしれない。

僕の自分を好きになれること

・締め切り2日前くらいに余裕を持って原稿を終わらせること

・仕事前に朝早く起きてカフェにいくこと

・妻と並んでご飯を食べること

僕の自分を嫌いにならないこと

・嘘をつかないこと

・ジャンクフードの日が続かないこと

・スマホ見ているだけで時間が潰れないこと

逆に言えば
僕が自分に嫌悪感を抱いてしまうことは、
(自分を嫌いになってしまうのは)

・嘘をついてしまうこと

・ジャンクフードばかり食べてしまうこと

・スマホを見ていているだけで時間が過ぎてしまうこと

例えば

妻と並んでご飯を食べられないからといって、
自分を嫌いにならないし、

朝カフェに行けなかったからといって、
自己嫌悪を膨らませない。

締め切り当日に原稿が終わらない時は、
自分を嫌っている時間や余裕はない。

自分を好きになること

自分を嫌いになること

大きな視点で見れば同じことかもしれないけど、
細かく見ていくとちょっと違うかもしれない。

これは心理学的な答えではないし、
人それぞれに感覚は異なってくるとは思う。

でも、
その些細な感覚が
言葉で説明すると抜け落ちてしまうような繊細な感覚が僕達の大切なものに、そして必要なものに繋がっているような気がする。

「ていねいな暮らし」とのキャッチフレーズを見て

ていねい、、、?

とは?

ていねいな食事、、、

とは?

「いただきます」と言って
座ってご飯を食べられることだろうか?

自分で時間をかけてご飯を作ることだろうか?

こだわり抜いた職人が作る一品だろうか?

人によって
そのすべてが「ていねいな食事」かもしれないし、
どれかは違うのかもしれない。

「ていねい」という言葉だけでは、
定義しきれないそれぞれの感覚や感性がそこにはある。

自分を嫌いじゃなかったら、
自分のことは好きなのだろうか?

それは必ずしもイコールじゃないように思う。

何が言いたいかというと
人間の気持ちや感性は白黒はっきり分けられるようなものじゃない。

当たり前のことのようだけど、時に忘れてしまう。

何でも綺麗に線引きして区分して整理することで、
理解しようと、安心しようとしたいのかもしれない。

でも、
その行為自体が苦悩や葛藤を生んでしまうなら、
曖昧さそのものを受け入れることが私たちの心を休ませてくれる。

私たちの心は
オセロの駒のように白をひっくり返したら、黒になるわけではない。

ママのことは好き
でも、今は一人にしておいて

パパはいつもうるさい
でも、日曜日にいないのは寂しい

あの人のそばにいたい
でも、嫌われるくらいなら遠くで見ておきたい

その曖昧な想いが私たちの人生を物語っていく。

「彼は私のこと好きなの?嫌いなの?」

彼の気持ちに線を引いて
はっきりさせようとしてしまうかもしれない。

でも、
あなたのことは好きだけど
付き合えないという曖昧さもある。

「彼女はなぜ僕の元を去っていったのか?」

誰よりも優しくしてくれたあなただけど
これからは側にいられない。

そんな割り切れない想いもある。

曖昧さを受け入れることは
時に痛くて寂しくて簡単なことじゃないかもしれない

でも
それに以上に
曖昧な気持ちに定規でまっすぐ線を引くことが痛みを伴うこともある。

相手を変えようとすることは、
相手の気持ちを勝手に自分の納得する形に
定規で線を引いていくことかもしれない。

あなたにとっては、
安心出来る行為であっても

相手には
ひどく痛みを伴うことかもしれないのだ。

「曖昧さ」とは
私たちが否定的に捉えることだろうか?

その「曖昧さ」を許してしまえるなら?
受け入れてしまえるのなら?

愛してしまえるのなら?

私達は苦悩や問題をどれだけ手放せるだろうか。

僕も昔は

曖昧さは弱さだと思っていた。

決めることの出来ない脆弱さ。

もちろん
その考え方も間違ってはいないかもしれない。

決めきれない意思の弱さ。

しかし、

そう考えていた時は、

曖昧さを許さない定規で心を碁盤の目のように

細切れに切り裂いていたようにも思う。

僕の考えが緩んだのか?

心が癒されたのか?

切り捨てていた曖昧な部分が

僕の細切れになった心を繋いで一つにしていった。

バッサリと拒絶していた人間関係を繋いでいった。

曖昧さを受け入れることも

きっと悪くない。

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