少し前に恋の終わりを受け入れていくプロセスについて記事にしました。
もうその恋には自分が望んだ未来が待っていないと分かっていても執着してしまうことがあります。
恋の終わりに揺れる心
相手のことを好きかどうかも分からない。
過去の憧れが失望に変わり、希望が見出せなくなる。
愛することですべてが変わってくれと願うのに、その愛する力が湧いてこない。
だけど、忘れることも出来ない。
日々、時間だけが過ぎていくようで、焦りを感じるけど、
加速していく焦りに身体がついていかない。
失望と期待が行ったり来たりすることに心は疲れていく。
恋のはじまりは、学者でも説明がつかない化学反応を伴って永遠に火花を輝かせつづける花火のように突然と打ち上がるのに、
恋の終わりはじっくりとゆっくりと自分の心を落ち着かせる言葉を探しながら、まるで無数のピースからパズルを組み立てるような根気と精神力を伴う。
途中まで作り上げたパズルを投げ出して壊したくなるような緊張感と闘いながらゆっくりとじっくりと。
納得するまで愛したい
恋の終わりを受け入れていく作業とはこのようなものでしょうか。
その恋の終着駅にはふたりで幸せに並んだ姿をイメージは出来ていないけど、心がそれを受け入れていくのには途方もない作業に感じられることがあります。
自分でも一体何を追いかけているのか分からなくなります。
まるで、止まったら死んでしまうマグロのように動き続けることが目的になってしまうことも。
なぜ、ここまで恋の終わりが大きい壁となって立ちはだかってしまうのでしょうか。
それは私たちが心に「自分が納得するまで愛し抜きたい」という願いと「最後まで愛しきらないと」という禊(みそぎ)を抱えてしまうからかもしれません。
「自分が納得するまで愛し抜きたい。」
たくさんの後悔を抱えているほど、この想いは強くなっていきます。
高校球児の甲子園の夢は強制的に終わりを迎えます。
勝っても、負けても、高校を卒業してしまえば、その夢を追いかけることが出来ません。
後悔のないように練習して、でも、試合で失敗して。
また、その後悔を埋めるように練習に打ち込んでいきます。
高校3年間という期間が決められていて、納得しようが、納得してなかろうが、その日々の終わりはやってきます。
期限が決まってないから
しかし、恋愛には、そのような期限はありません。
無限に自分が納得するまで、数多の後悔が納得に変わるまでその日々が続けることができます。
だからこそ、より葛藤が生まれますし、葛藤が後悔を生み出していきます。
その葛藤と後悔の日々がうまく愛せなかった自分の罪を洗い流すための禊(みそぎ)へと変わってきます。
相手に嫌われてしまったことや相手の関心や温度が冷めていったことが、まるで自分が引き起こした罪のように心が責めて立てるのです。
恋の終わりは相手の嫌なところも見えてきます。
それこそ、この先に幸せな未来はないと気付いているわけですからね。
どこかでこの人は真実のパートナーではないと感じています。
「あぁ、この人はやっぱり自分のことしか考えてないな〜」とか。
「月に1回顔を合わせるだけで、これだけ振り回されるのに、一緒に居たらもっとしんどいよな〜」とか。
心の中には浮かんでいるんですよね。
でも、それを必死に否定しようと頑張ってしまいます。
自分が相手をもう好きではないことを認めてしまったら、禊(みそぎ)は完了しないですからね。
恋の失敗は、その恋でさらに苦しむことで禊(みそぎ)をしようとする企みを深層心理は持っていて、途中で投げ出すわけにはいきません。
言葉で説明しても、この感覚で渦中にいると分からないかもしれませんね。
納得できる意味を見つけたい
「母親が20歳になるまで、家にクーラーがなかった。
わたしは小さい頃からクーラーのある家だったから、夏の暑さを凌ぐことが出来た。
母の人生は苦労ばかりしていてかわいそうだったから、わたしも母と同じように今からクーラーのない生活をしよう!」
この話を聞いて「全然意味が分からない〜!」という人もいれば、「めっちゃ分かる!」って人もいるんですよね。
これからクーラーを使わないことで母親の人生の苦労が報われるわけではありません。しかし、その行為を行うことで自分自身を「何か」納得させることが出来るんですよね。
このように一見合理的ではないことにも、自らの意味と価値を付けてしまうことがあるのです。
でも、合理的なことばかり追いかけても、私たちが人間として、自由意志を持っている生き物として生まれてくる意味もないのかもしれません。
ロボットやコンピューターのように生きているわけではないから、ドラマや感動があります。
その恋の意味を見つけたい
恋の終わりも理屈や合理性とはちょっと違う自分なりの納得の仕方、腑の落とし方があるんですよね。
自分のやってきたこと、出会ったこと、2人で歩んできたこと、すれ違っていったこと、これからの道。
それらの意味や価値を自分で見つけていく作業があるんですよね。
その意味や価値を自分が納得するまで追いかけていくのか?
それとも新しい意味や別の価値を見つけ出して方向転換していくのか?
何がが正しいか?なんて答えはありません。
ただこの段階(分岐点)まで来ると、相手とのコミュニケーションよりも、自分の本気の本音とのキャッチボールが大切になってきます。
カウンセリングが恋愛の話から「私はどう人生を生きたいのか?」と壮大なテーマになっていくのは、本気の本音とのキャッチボールが始まっていくからです。
自分を向き合っていく
相手ではなく、自分と向き合うステージなんですよね。
カウンセリングでがやっていることもこのキャッチボールなんですよね。
今まで自分の本音と向き合うことが出来なかった人は、初めてグローブとボールを渡されたようなものですからね。
どうやってグローブをはめていいのか?
どうやってボールを握ればいいのか?
真っ直ぐにボールを投げることができるのか?
投げられたボールをちゃんとキャッチできるのか?
分からないですよね。
これは実際にボールを使ってキャッツボールする時も、自分の本音と向き合う時も同じなんです。
だから、野球にもコーチがいるようにカウンセラーがサポートしながらキャッチボールを練習していきます。
相手の胸の真ん中にちょうどよくボールを投げることができて、相手からのボールも見事にキャッチできた。
キャッチボールがうまくできた時に、ちょっと嬉しい気分になります。
これも本音とキャッチボールする時も同じです。
「そうです!実は私はずっとそんな風に思ってきたんです!」
「言葉に出来なかった想いにやっと気付けました」
そんな風に涙を流される人がいるのは、相手との会話のキャッチボールが出来なかったことよりも、自分の心とのキャッチボールがずっと出来ていなかったからかもしれません。
恋の終わりというきっかけが、本当に自分に出逢わせてくれるのです。
迷いながら見つけていく
自分の心の声が聞こえない。
音信不通のまま彷徨っていたのかもしれませんね。
すぐにうまくいかなくても大丈夫なんです。
昨日と今日の気持ちが変わっても大丈夫なんですよ。
迷い続けていいんです。
問いかけるのを辞めないことなんです。
投げるスピードはゆっくりでいいから、本気の本音とキャッチボールを続けることなんです。
疲れたらちょっと休んで、また自分にボールを投げかけてみる。
その繰り返しでいいんです。
誰かに焦らされることも、何かを背負うこともしなくていいんです。
それはあなたが本当の自分に出会うための大切な時間です。
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