正月の映画館は新しい年の空気を帯びつつも、変わらない匂いのままだった。
まばらに埋まった席がなんだか心地よく
「こんな日でも映画を観にくる人が自分の他にもいる。」
勝手に一体感を覚える。
新年早々に人生で振り返る作品の一つに出会った。
『ケイコ 目を澄ませて』
監督:三宅唱 出演:岸井ゆきの
この映画には劇伴がない。
つまりBGMがない。
岸井ゆきの演じる主人公ケイコの台詞も少なく
そもそもケイコは生まれつき耳が聞こえない。
ホテルの清掃の仕事をしながら、毎日ロードワークもこなしジムに通い続けるプロボクサーだ。
ケイコの戦いはリングの上だけではない。
リングの風景と日常との風景を交差させながら物語は進んでいく。
ひとりで戦っているのか、支えられているのか。
分からなくなる瞬間はある。
リングの上ではひとりだけど、ひとりで戦っているわけじゃない。
それはリングの外でもおなじ。
この映画は音楽の流れてこないミュージックビデオを見ているように16mmフィルムで撮影された映像が流れていく。
音楽で感情を煽ることもないし、登場人物の気持ちを説明することもない。
街の音が、歩く音が、ミットを打ち込む音だけがそこにある。
だからこそひとりの受け手としてまるで側で物語を見ている感覚になる。
語られないからこそ、流れていく物語と自分を自分で繋げていく。
過保護な分かりやすい表現が世の中には増えているけれど、それは便利であっても優しくはないのかもしれない。
99分の上映時間は長く濃密に感じられた。
映画が退屈だったからではない。
説明や音楽で誤魔化すことができないから
一つ一つのシーンとゆっくりと向き合っていく。
語られないケイコの気持ちをゆっくりと掬い上げていく。
自分の気持ちと重ねていく。
正解はない。
それでいいし、それがいい。
誰かの声を聞くことは、
(それが言葉になっていてもいなくても)
静かで優しい時間の中にある。
鑑賞後、行き道では音楽を流していたイヤホンを外して街を歩く。
風の音、車の音、人々が出す音、会話する声がリアルに感じられた。
そこにあるはずなのに、聞いていなかった音たち。
映画の続きをひとり続けているみたいだった。
“逃げ出したい、でも諦めたくない“
パンフレットにそう書かれていた。
ケイコの通うジムの会長(三浦友和)がケイコのプロボクサーとしての才能について語る場面がある。
“才能はないかなぁ
だけど なんだろうな
人間としての器量があるんですよ“
“才能がない“ことは物語が終わる理由にならない。
そこからはじまる物語が続いていく。
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