12月12日 母方の祖父が天国に旅立った。
享年97歳。
葬儀はコロナの影響もあり家族葬でひっそりと行われた 。
それでも祖父の葬儀に駆けつけてくれた人達から
「とても立派で会う度に身が引き締まるような方でした」という
祖父への言葉をたくさん聞いた。
祖父はカッコよくて、強かった。
朝起きて、木刀で素振り、寒風摩擦。
コップ3杯の水を飲み職場まで歩いく。
午前中の仕事をすませて昼食をとると、1時間ほど散歩に出かける。
そしてまた夕方まで働く。
土曜日も日曜日も、朝のルーティンは変わらない。
職場まで歩いていき、新聞や本を読み、靴を磨く。
91歳まで働いた。
91歳で仕事を辞める時に、「これからは英語も出来んとな」と言って、英語を勉強し始めた。
仕事は辞めたのに、職場があった事務所に毎日通っていた。
スーツをビシッと着こなして、いつも身なりには気を使っていた。
そんなカッコいい祖父だった。
人は何か得た時よりも失った時の方が、その感情や情報の量は膨大なのかもしれない。
当たり前のことだが、僕が生まれた時から祖父はこの世にいた。
僕が生まれて祖父と過ごした33年間の思い出が、終わりのない小説のように繰り返し蘇ってくる。
その物語を全て消化できるようになるには、僕が今まで生きた33年間以上の時間が必要になるかもしれない。
ガラガラポン
祖父はとても優しかった。
男4兄弟で育ったヤンチャな僕らが、祖父の家で走り回っても、戦いごっこをしても、一度も怒られたことがなかった。
マンションのベランダで空気で膨らませる子供の用の小さなプールで遊んでいた時に、「あんまりはしゃぐとベランダの外に水が溢れてしまうよ!!!」と慌てる祖母をよそに、祖父はニコニコと僕らを見ていた。
僕ら4兄弟は祖父のことが大好きだった。
僕が小学生になると、ことある毎に祖父は昔の話をしてくれた。
祖父の子供時代や学生時代の楽しい話ばかりだった。
その話を母親や他の兄弟に話してみると、「そんな話は聞いたことない。」と言っていた。
僕が祖母にその話をすると、「あんたが黙っておじいさんの話を聞いてあげてるから、おじいさんもいろんな話をしてくれるんやろうね。」と。
僕はそのことが自慢になった。
母親(実の娘)でも聞いたことない話、お兄ちゃん達も聞いたことない話を聞くことが出来るのは、何か特別なことのようで、自分とおじいちゃんだけの秘密があるようで嬉しかった。
おじいちゃん、おばあちゃんの家に遊びに行くことが楽しかった。
カウンセラーは話を聞くことが仕事だけど、その原点は祖父が話を聞いていた体験から来ているのかもしれない。
僕が中学生になると、祖父の話は楽しい話ばかりではなくなった。
祖父は1923年生まれ。
日本が終戦を迎えたのは1945年のことだ。
戦前、戦中、戦後を生き抜いた祖父の話は、歴史の授業で習ったことがただの暗記科目でないことを痛烈に教えてくれた。
祖父の話からは、当時の切迫感や緊張感が伝わってきた。
年号や政治的な意味合いを学ぶだけでは分からない、当時を生きた人の声だった。
当たり前だけど、大きな歴史的な出来事の中にも、そこに生活していた人々がいる。
「バカの壁」で有名な養老孟司さんが著書の中で、「ガラガラポン」という言葉で戦争のについて語っている。
ガラガラポン
今まで自分が必死に音読していた教科書を、戦争が終わった瞬間にそれらの内容は「ポン」消えてしまって、自分たちの手で黒すみを使って消していく。
「一億玉砕」「本土決戦」と、国民を奮い立たせていたのに、終戦をきっかけに「はい、それは間違いでした〜!」と全てが180度変わってしまう。
有無を言わさないその肉体的な感覚を「ガラガラポン」と表現している。
祖父の人生は、「ガラガラポン」の連続だった。
ガラガラポンと祖父
祖父から戦争の話を聞かされるようになってから、僕は度々、祖父から怒られるようになった。
というか怒られてばかりだった。
「そんな甘い考え方では生きていけない」
何か祖父に言ったわけでもないのに、急に祖父はスイッチが切り替わったように厳しい言葉を投げかけるようになった。
時には僕が涙を流しても怒り続けていた。
今では「好きなことで生きていく」 の言葉が世の中の氾濫しているが、祖父は「生きていくために、生きる時代」を生きた人だった。
祖父は小学生の頃に、経済的な理由から何も知らない縁もゆかりもない家族に預けられる。
当時は、そのようなことは珍しくなかった。
しかし、預かられた先も裕福な家庭というわけでもなく、そこでも生きていくのに必死だった。
ご飯も、洋服も、ろくに与えてもらえない。そんな環境の中で、一緒に預けられた妹を守るために、祖父はたくましく生きた。
今までの家庭環境が「ガラガラポン」と変わっても、弱音なんて吐いている暇はなかった。
「お前は泥だらけのカエルの味なんか分からんやろうな〜」
ある時に、祖父が僕にポツリと漏らした。
「そんなことが分からん時代で良かったな〜」
それだけで祖父がどのような幼少期を過ごしたのか、過酷さが伝わってくる。
祖父が大きくなると、祖父の家も少しは経済的にゆとりもが生まれて預けられた先から家族の元へと帰ってくる。
しかし、祖父はまだ安心した日々を送れなかった。
軍国主義の日本で、祖父の通っていた学校はその色合いが強かった。
先輩はまるで軍隊の上官で、先輩の言葉は絶対だった。
「上級生から目を付けられたくないから必死に勉強していた」
先輩から成績が悪いだけで、鉄拳が飛んでくる学校だった。
どんな理不尽な要求でも期待に応えて歯を食いしばった。
祖父は気が付くと成績優秀者として学校を卒業するまでになっていた。
勉強への熱意ではなくただ怒られないように必死だった
でも、それが幸いして、いい就職先につくことが出来たらしい。
幼少の頃から苦労と忍耐の日々だった祖父の人生は少しは報われたかもしれない。
しかし、世の中は戦争の脅威が日に日に高まっていた。
祖父は徴兵された。
ガラガラポン
やっとの思いで、手に入れた落ち着ける日々が「ポン」消えた。
学生時代のような厳しい生活に逆戻りした。
いや、学生の頃よりも緊迫した文字通り命をかける日々が始まった。
ただ、幸いなことに、必死に勉強していたおかげで、前線で戦うのではなくて、精密機械や備品を点検、修理する仕事をしていた。
祖父を守ってくれたのは、必死になって自分が身につけた勉強だった。
そして終戦。
養老孟司さんも経験したように、祖父も、日本国民全員が、「ガラガラポン」を体験した。
その後は大変だった。
それこそ生きるために、生きていく。
祖父は必死だった。
その日の食べるもをなんとかするのに精一杯な日々を続けて、ようやく仕事を見つけて働き出すことが出来た。
戦前での職歴もあって、ここでもいい仕事に就くことが出来た。
祖母に出会い、2人の子供も授かった。
このまま安心して暮らしていける。祖父は安心していた。
しかし、大病が祖父を襲う。
「ガラガラポン」
3人目の子供が生まれたすぐだった。
入退院を繰り返す祖父は、仕事は辞めさせられることはなかった。でも入院して休職していた期間の給料は入ってこない。
とても貧しい生活をしていた。
このままじゃいけないと奮起して、公認会計士の資格を勉強し始める。
当時のことを母が「おじいちゃんが勉強していたから、家の中では話もしちゃいけなかった」と振り返っていた。
貧しい生活の中で借りることが出来た部屋は狭かった。
勉強するための机すらなかった。
祖父は板を買ってきて、棚の上でそれを支え勉強をしていた。
そんな生活を何年も続けていたらしい。
4兄弟の末っ子として、生まれて、自分の部屋を持てない不満を漏らしていた僕に、祖父が「そんな甘い考えでは生きていけない!」と怒った意味がその話を聞いて、やっと理解できた。
何年もかけて公認会計士の資格をとることが出来た後も、祖父は自分に厳しく働き続けた。
祖父が教えてくれたこと
祖父の戦時中の話やその後の話は、他の兄弟は聞いたこともなかった。
他の兄弟には相変わらず優しい祖父だった。僕だけがことあるごとに祖父に厳しく怒られた。
他の兄弟は一回も怒られたことがなかった。
僕からすれば、とても理不尽なことに感じられた。
「お前がアホだから怒られるんだよ!」
兄弟間で笑いのネタにするしかなかった。
その祖父が、ある時期、僕に何も怒らなくなったことがあった。
それは僕が引きこもりの時期だ。
母は引きこもって何もすることがなかった僕を、頻繁に祖父が働く事務所に連れて行ってくれた。
そこで一緒にお昼ご飯を食べる。
多い時は、週に2回ほど祖父の事務所に遊び行っていた。
祖父も、祖母も僕に何も言わずに受け入れてくれた。それが僕の心の回復を支えてくれた。
何も言わないことが祖父の優しさだった。
それから少しずつ社会復帰をするようになってから、また厳しい祖父が少しずつ復活してきた。
今まで以上に強いメッセージを僕に伝えるようになった。
それは祖父なりのエールだったと思う。
僕は、僕なりのガラガラポンを体験した。
学校の先生にいじめられたこと、不登校になったこと、引きこもりになったこと
祖父のガラガラポンと比べれば、生温いものだったかもしれないが、祖父はそれでも強く生きいけるように、僕にエールを送ってくれていたのだと思う。
祖父は、「どんな会社にいても、どんな仕事をしていても、『株式会社桑野量』という名刺を持ったつもりで働きなさい」といつも言っていた。
それは例え何度もガラガラポンがやってこようとも、自分の軸さえ持っていれば、何度もやり直すことが出来るという祖父のメッセージだった。
ちょうど一年前ほど、祖父の誕生日お祝いで食事をしていたら、急に祖父が怒り出した。
今まで見たこともないくらいに怒っていて、「戦時中だったらお前のことを殴り飛ばしているよ。もうお前の顔など見たくない!!」祖父はそうやって部屋を去った。
認知症も入っていたと思う。でも、そのことを受け止めることが出来ないくらいショックだった。
それから祖父の元へと顔を出すことが怖くて出来なかった。
しばらくして、祖父は母に「量には悪いことをしてしまった、謝らないといけない」とこぼすようになった。
それなのに、仕事の忙しさを理由に祖父の元へと行くのを避けていた。
祖父が亡くなって、この文章を書くためにいろいろと想いをめぐらしていると、なぜ、そこまでショックを引きずってしまったかようやく分かった。
「もうお前の顔を見たくない!出ていけ!」
それは学校の先生からいじめらるようになった日に、先生が僕に放った言葉だった。
その時のショックとリンクしてしまっていた。
祖父の亡くなる3週間前くらいに、突然、母から電話があった。
「今日、パパとおじいちゃんのところに行ったけど、おじいちゃんがパパに頭を下げて謝ってたの。
『あなたという父親がいながら、出過ぎたマネをして、一番下の子にアレコレ厳しく言ってしまっていた。申し訳ない』ってね。」
そして、母は続けて言った。
「明日おじいちゃんに会いに来なさい。」
それを聞いて、涙が止まらなかった。
自分のプライドが、ちっぽけな過去へのこだわりが、なんとも情けなく感じられた。
次の日、仕事の合間になんとか祖父の元へと会いに行った。
部屋を開けると「お前はこれくらい小さかったのに、そんな大きくなったか〜」
3歳ほどの子供の身長のところに手をやりながら、そう笑っていた。
久しぶりに会う祖父は小さく見えた。
「久しぶりだね、じいちゃん!」
僕が答えると、祖父は優しい顔から一転して、厳しい力強い説教を始めた
『お前中途半歩な仕事をしていたら許さんぞ!時は兄弟を殴り飛ばしてでもお前が引っ張っていけよ!』
周りで見ていた祖母や母が、今回は優しく和やかなモードになるかもしれないと思っていたのに、祖父の激しい口調とメッセージに慌てていた。
でも、僕にとっては、怒られているというよりも、このメッセージはちゃんと聞いておかなければいけないと思った。
そして、それが僕が祖父に会った最後の日だった。
祖父に会いにいけたことで、僕が抱えていた過去のトラウマもまた一つ乗り越えられたと思う。
祖父の厳しいメッセージは、僕にガラガラポンを乗り越える強さを与えてくれた。
祖父が見せてくれたもの
もう一つ、祖父が僕に与えてくれたことがある。
僕が物心ついた時から、祖父と祖母はいつも手を繋いでいた。
歩くときも、ご飯を食べる時でも、気付いたら仲良く手を繋いでいた。
『おじいちゃんは、ずっと過酷な状況で生きてきた人でしょ。だから、おばあちゃんみたいに何でも受け入れて支えくれる人がいて、本当に良かったと思う』
葬儀で母が言っていた。
「もう帰りたい」
「最後までいないダメ?」
祖父の葬儀で別れるのが悲しくて、子供のように駄々をこねる祖母の姿を見ていると涙がこぼれてきた。
激怒の時代を生きてきたふたりの絆はとても強いものだった。
たくさんの厳しいメッセージの中にも「お前もこのカーディガンをあげよう」「俺が死んだら、ここにある本は全部お前にやる」そんな言葉も祖父は残してくれていた。
祖父の厳しさは、すべて愛だった
祖父が天国で見ていても、また叱られないような生き方をしていきたい。
ガラガラポンを乗り越える強さはもう祖父に教えてもらったから。
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