7月、いや、今年の夏のテーマにしてもいいと思っている。
「与え続けること」への恐れと抵抗。
恋愛でも、仕事でも、ターニングポイントにはこれが潜んでいる。
「与えること」
すごく抽象的なテーマだけど、この感覚、体験こそが人生を突破する強いエネルギーになる。
無意識に恐れていること
人は「もう私には何も与えられるものがない」という状況を無意識的に恐れてしまう。終わりが来れば用済みになると思ってしまう。
だから、与え尽くさないように出し惜しみをする。
「まだ私には与えられるものがある」ことが自分の安心感にもつながる。
少し言い方を変えれば、全力を出すことへの抵抗とも言える。「すべて出し尽くして何も得られなかったら、」と恐れが躊躇させる。
あえて時間を無駄に過ごすかもしれないし、興味ないふりをする。自らの体を酷使することもあるかもしれない。
「何かしてあげること」よりも、「何かしてもらうこと」を求めて、相手をコントロールすることもある。
しかし、相手も同じように「すべて与え尽くしたら用済みになるかもしれない」恐れを持っているかもしれない。
「愛しているなら〇〇してくれるでしょ!?」は、相手に恐れの感情へとダイブさせる行為かもしれないのだ。
その恐れはいつか乗り越える必要はあるけれど、バンジージャンプを飛ぶことを怖がっている相手に、鞭をチラつかせて無理やり飛ばせても、愛を得ることはできない。
また、相手にも「〇〇してくれたら、△△してあげる」と取引材料に使うこともある。
「あなたが本当に私のことを好き」って私が確信できたら、その時は私が全力で愛してあげる!
この方法は最適のように思えるけれど、このやり方が通じない相手がたくさんいる。
過去の恋愛に傷付いた相手や恋愛に積極的ではない相手には、自分の全力を出し惜しみしたところで、心は動かない。
相手は安心できる1人の生活を守りたい。
安心できる穴倉を抜け出して、ふたりの人生を始めるためには、リスクがいる。
そのリスクを超える勇気や信頼を得るためには、愛する側が全力で相手にコミットする必要がある。リスクを冒さない安全圏からの言葉は相手の心には届かない。
「与えること」は難しい
なぜ、こんなにも与えることが難しくなってしまうのだろうか。
「与えること」が「我慢すること」と結びついて、自分がボロボロになるイメージがあるかもしれない。
与えることは、本来それ自体が喜びでもあるはずなのに。
例えば、お腹を空かせた子供が目の前にいたら、自分が持っているお菓子や食べ物をあげたくなる。それで満たしてくれれば嬉しいし、見返りを何か求めようと思わない。
「与えられるものがある。」
それが自らの心を豊かにしてくれる。
物理的な損得以上の体験がそこにある。
でも、「与えること」を何かに強制されれば搾取のように感じられる。
与えることは、そこに自らの意思がなければ、心を満たしてくれない。
恐れやルール、不安に強制されて「与えること」を選んでも、心は豊かになれない。さらに失うこと、奪われることをイメージさせられるからだ。
心理学では、「与えたい」と純粋な意思を取り戻すことをコミットと呼んでいる。
愛することへ、与えることへ、自分を表現することへコミットしましょう!と。
それは誰かに、また自らの内にある恐れに、強制されることなく、自分の意志で与えることを選択すること。
それは、誰かを愛すること、何かを与えることへの純粋な喜びを取り戻すことかもしれない。愛すること、与えることは犠牲ではない。
私たちは、与えることで得られるものがたくさんある。
そうであるならば、私たちは与えることで失うことはない。
「もう何も与えられるものがない」
その恐れは、与え続けることによってのみ、突破できる。
受け取ってくれない相手に与え続けよ!ということではない。
「与える」ことで、自らの心を豊かにするためには、環境も、相手も、タイミングも、整える必要はある。
それを犠牲にして何かを与えることは、美談のように思えるかもしれないが、自らの人生がうまくいかないことの復讐に相手を利用していることがあるから。
「自らの心も大切にする」
その土台があってこそ、「与えること」で喜びの花を咲かせることができる。
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